⟵ ヴィタリア転生録
— A NOVEL OF VITALIA —

ヴィタリア転生録 — 光の章

ヴィタリア転生録 — 影の章

砂は雨を待ち、雨は芽吹きを待つ。
七つの大罪を超えて、あなたは「あなた自身の物語」を取り戻す。

📖 16 📝 約 50,000字級 🌟 4視点 👑 2モード
— PROLOGUE —

砂の朝

語り手:ピクセ

ヴィタリアという国がある。

地図の上には載っていない。星座の名にもなっていない。検索エンジンに名前を入れても、もちろん何も出てこない。

けれど、たしかに存在する。

しんどい朝、布団から這い出せなかった日の、そのほんの数センチ先に。
病院の廊下、検査結果を待つあいだの、白いベンチの足元に。
治療を終えた誰かが、もう一度、自分の人生を歩こうとする ── その最初の一歩の裏側に。

ヴィタリアは、そういう場所にある。

と、と、芽吹き。三層からなる、目に見えない国。

地表の砂は、過去の記憶。地下の雨は、癒やしの水脈。そのあいだに、芽吹きが息をしている。

✦ ✦ ✦

その国の記録係が、わたしです。

名前は ピクセ。羽は虫のもの、声は少しだけ歳を取った子供のもの、瞳の奥には何百年分かの記憶が沈んでいるとか、いないとか。本人(本妖精?)も忘れました。ぴくっ。

仕事は、ひとつ。転生してきた誰かの、12週間の冒険を、この本に綴じること。

──そう。あなたのことです。

あなたはまだ、自分がここに来た自覚がないかもしれない。気がついたら、灰色の霧のなかに立っていた。それだけしか覚えていない、というのが、ふつうです。記憶は霧と一緒に薄まる仕様になっているのです。

でも、足元を見てください。

踏み砕かれた砂時計の破片が、あるはずです。砂の粒のひとつひとつが、淡く光っている。それらは あなたが過ごした日々 のかけら。一粒は治療の朝、一粒は退院の昼、一粒は誰にも言えなかった夜。

ヴィタリアは、それを集める国です。集めて、雨に溶かして、新しい芽の養分に変える国。

✦ ✦ ✦

本書は、12週間の物語です。

あなたは、四人の仲間に出会います。

沈黙の剣士、カイト
薬草園の侍女、セラ
月光の女神官、ルナ
そして、わたし、ピクセ

あなたは、七つの大罪と戦います。

怠惰、暴食、憤怒、嫉妬、強欲、傲慢、色欲。古来、人を堕落させる七つの誘惑とされてきたもの。けれど、ヴィタリアでは少し違う意味を持ちます。それぞれが、あなたの中にある「動けなさ」の名前なのです。

怠惰、暴食、憤怒、嫉妬、強欲、傲慢、色欲。これらは 悪役令嬢ロザリア を断罪に追いやろうとする七つの罠の名前。けれど、罠を超えた者だけが、真のエンディング を掴めるのです。

そして、最後にあなたが対面するのは ── もうひとりの、あなた自身

羽が、ぴくっ、と震えました。覚悟は、できていますか?

「12週間、ご一緒できますか?
いまのあなたが歩く、その速さで。
それで、よろしいですか?」

あなたは、頷いた。
それは、最初の 選択 でした。

では、第一章を始めましょう。

— CHAPTER I —

迷いの霧

語り手:あなた(二人称)

霧は、声を出すたびに少しだけ晴れる。

そう教えてくれたのはピクセだった。

「霧の正体は、「動いていいのだろうか」 という躊躇いの粒子です。
身体を守るために、かつて必要だったもの。
……でも、いまはどうですか?」

あなたは答えなかった。代わりに、灰色のヴェールの向こう、見えるはずの何かを目で探した。

足元の砂は柔らかく、踏むたび小さな光を返す。それは あなたの病室の窓から見えた朝陽の色だった。それは舞踏会の前夜、屋敷の窓から見上げた星空の色だった。

『動いてもいいのだろうか』 ── 心臓のあたりで、その問いが鳴っていた。

✦ ✦ ✦

長いあいだ、あなたは動かないことを、ひとつの戦略として選んできた。

治療を受けていた頃、無理をすれば検査値が崩れた。少し走れば家族の顔が曇った。動かないことは、責められない選択肢だった。安全だった。正しかった

けれど、いつからかその「正しさ」は、薄い霧のような何かに変わっていた。
動かないでいることが、誰かを守るためなのか、それとも自分が傷つかないためなのか、わからなくなっていた。

そして気がつけば、自分が 本当に動きたかった方向 も、霧に呑まれて見えなくなっていた。

──それが、ヴィタリアの霧の正体だった。

⋯⋯⋯⋯

「動かないことも、立派な戦いでした」とピクセは言う。橙のランプの灯が、霧をひとすじ削った。

「でも、いまは。動いてもいい身体を、あなたはちゃんと、手に入れているのではありませんか?」

あなたは自分の手を見つめた。指がある。腕がある。心臓は奥の方で規則正しく時を刻んでいる。それを 当たり前 と呼べるようになったのは、つい最近のことだった。

霧のなかで、あなたは ── ほんの一歩、踏み出した。

砂の粒が、ぴしゃ、と光った。

霧が、ふっと薄まった。

視界の端、何かが動いた。

✦ ✦ ✦

1分の散歩 でも、霧は晴れます」

ピクセが囁いた。

「カイトが言っていましたよ。『最初の一歩は、勝利のうちに数えていい』って」

あなたは、もう一歩、踏み出した。

そして、もう一歩。

霧の向こうから、赤いマントが翻った。剣の柄を握る、無口な男の足音が、近づいていた。

──第二章へ。

— CHAPTER II —

剣士の沈黙 ── 疲労の影

語り手:カイト

俺は、長いこと喋らない男だ。喋るより、動くほうが性に合っている。

剣士というのは、本来そういう生き物だ。言葉でなく、剣で語る。表情でなく、立ち姿で示す。──そう信じてきた。

けれど、ある時期から、その剣を握れなくなった。

原因は、いまさら明かさない。怪我だったとも言えるし、心の方が先に折れたとも言える。鏡の中の自分を見るたび、知らない男が立っていた。剣を構えるかわりに、両手で顔を覆っていた。

毎日、玄関のドアを開けるところから始めた。
次の日は、玄関を出てみた。
その次の日は、ポストまで歩いた。
さらに次の日は、ポストの先まで行ってみて、それで引き返した。

三週間がそうやって過ぎた。気づいたら、剣の柄をまた握れるようになっていた。

誰にも自慢できない、地味な復帰だった。
けれど ── あれは、俺の人生でいちばん大きな勝利だった。

✦ ✦ ✦

ヴィタリアの霧の境目に、青く流れる影がいた。疲労ノ影と呼ばれる、ヴィタリアの第一の門番。

影は、近づく者に囁く。

「身体が、重いだろう?
無理をするな。
いまの自分のままで、いいんだ⋯⋯」

俺は、その囁きを知っている。
数年前、玄関で立ち尽くしていた俺の耳に、毎朝、同じ声が聞こえていた。

そして、霧のなかから、転生者さんが出てきた。

その目を見た瞬間、俺は懐かしい何かを感じた。動いていいのか、まだ自信がない 顔だった。あの頃の、俺の顔だった。

俺は、自分の剣を抜かなかった。代わりに、転生者さんの肩に、軽く手を置いた。

「1分でいい。
それだけで、霧は晴れる。
長く続ける必要は、ない。
── 続けることと、長く動くことは、別物だ

転生者さんが、ゆっくり頷いた。

そして ── 歩き出した。

歩幅は短い。姿勢は少しだけ前のめり。けれど、確かに地を踏んでいた。

⋯⋯⋯⋯

疲労ノ影が、ぐらりと揺れた。

影は俺たちに向かって、最後の囁きを放った。

「⋯⋯動けるのか。動いて、いいのか?
無理を、してはいないか?」

俺は剣を構えた。鞘から滑り出した刃が、霧のあいだで一瞬だけ光った。

「無理してない。
1分だけ動いてる。それだけだ。
⋯⋯ 1分の積み重ねが、いまの俺を作った。
お前は、もう用済みだ」

剣の腹で、俺は影をひとつ、なぞるように撫でた。
影は、ほどけて、青い霧になり、地面に染み込んだ。

あとに残ったのは、地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。

✦ ✦ ✦

俺は、転生者さんの後ろを歩いた。

剣士というのは、本当は 前を歩く者 ではない。後ろにいて、振り向かなくていいことを保証する者 のことを言う。少なくとも、俺はそう思っている。

転生者さんが、振り向かずに歩き続けるあいだ、俺は剣の柄を、いつもより少し強く握りしめていた。

「先生 ── 俺は、いま、誰かを守れています。
あの頃、剣を握れなかった、俺が」

独り言は、ヴィタリアの風に溶けた。誰にも届かなかったけれど、それでよかった。

地平線の先、緑のローブが翻る、薬草園の煙が立っていた。

— CHAPTER III —

緑のローブ ── 枯渇の魔物

語り手:セラ

わたしの母は、毒で亡くなりました。

誤解しないでください。誰かに毒を盛られたわけではありません。
長い闘病の末、薬と病が、母の身体を少しずつ削っていったのです。

最後の数ヶ月、母は何を食べても味がしなかったと言いました。「美味しさを、忘れちゃったみたい」と、笑いながら。あの笑顔を、わたしは一生忘れないと思います。

母が亡くなった夜、わたしは家の裏の薬草園に出ました。空には満月。地には霜。冬枯れた草の根元に、幼い手で穴を掘り、新しい種を埋めました。

『食べることは、生きることだ』 ── そう、誰にともなく決意しました。
誰かの食卓を、もう一度、温かい場所にしたい。母の最後のひと言を、別の誰かには言わせたくない。

それから何年もかけて、わたしは薬草を育て、レシピを習い、火の通し方を覚え、人の身体に いちばん優しい量 を学びました。

✦ ✦ ✦

ヴィタリアの森の奥、枯れた木立のあいだに、茶色く萎んだ魔物が蠢いていました。
名は 枯渇ノ魔物。栄養不足を、姿のある形に閉じ込めた存在です。

その魔物が囁きます。

「何を食べても⋯⋯力が、出ない。
食べる気が、しないだろう?
食卓は、もう、空っぽでいいんだよ⋯⋯」

わたしは、母の声を聞いた気がしました。
けれど、すぐに首を振りました。

母の声は、もっと、温かかった。

森の入口から、転生者さまが歩いてきました。隣には、あの寡黙な剣士。さらに、ぴくっ、と羽の音。

転生者さまは、わたしの薬草園の入口で、少しだけ立ち止まりました。食べてもいいのか ── そう、目で問うているようでした。

わたしは、知っています。

治療中、口にできるものが限られていた人の目を。母も、同じ目をしていました。「今日は卵だけ」「今日はおかゆだけ」「今日は何もいらない」── そんな日々を経て、ようやく自分の食卓に戻ってこられた人は、最初の一口に ためらう のです。

わたしは、青魚の味噌煮を小皿に盛りました。
EPAとDHA。抗炎症の橋を架ける材料。
かつおぶしの一掴み。アミノ酸の小さな魔法。
味噌の発酵。腸内の善玉菌への、優しい挨拶。

「魚のいちばん良いところは、
身体を造る材料 でありながら、
同時に、身体を癒やす材料 でもあるところです。
⋯⋯あなたの細胞が、新しく入れ替わるときに、
この一匙が、その材料になります」

転生者さまは、口に運びました。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

その瞬間、枯渇ノ魔物が、苦しげに身をよじりました。

「やめろ⋯⋯食べるな⋯⋯
身体を、満たすな⋯⋯」

わたしは、薬草園の奥から、ひと束の 春菊 を取り出しました。
そして、青魚と豆腐を一緒に煮込んだ小鍋を、火にかけました。

セラの結界、と冒険者たちは呼びますが、ただの料理です。けれど、ただの料理にこそ、いちばん強い魔法が宿るのだと、わたしは知っています。

湯気が立ちのぼり、森のあいだに広がりました。湯気は枯渇ノ魔物の輪郭をなぞり、ふっ、と砕きました。

魔物は、最後にひと言だけ残しました。

「⋯⋯思い出した。
食べることは、生きることだった、と⋯⋯」

そして、ほどけて、土になりました。

✦ ✦ ✦

わたしは、転生者さまに笑いかけました。

「あなたの食卓に、魔法が宿りましたね。
母さまが、見てくれているような気がします」

胸の奥が、ふっと、温かくなりました。母の声が、いま、わたしを通して、誰かを支えていました。

森の奥、湖の方角に、銀色の光が差していました。月光の女神官、ルナの祈りの時間が、もうすぐ始まる頃でした。

— CHAPTER IV —

銀色の月 ── 孤独の幽霊

語り手:ルナ

わたくしは、長いこと、声を失っていました。

厳密に言えば、声帯は無事でした。けれど、心のなかにあったはずの言葉が、外に出ようとすると、いつも喉のあたりで凍りついてしまうのです。

誰かに「大丈夫?」と聞かれて、「大丈夫です」と答えるのが精一杯でした。
その「大丈夫です」のなかには、たくさんの「大丈夫じゃない」が入っていたのに、それを開いてしまうと、自分が崩れる気がしていたのです。

月の女神 ── ヴィタリアの古い神に祈り続けた年月を経て、わたくしの声は、少しずつ戻ってきました。

けれど、戻ってきたのは「叫ぶ声」ではありませんでした。
戻ってきたのは、静かに、じっくりと、ひとつずつ言葉を選ぶ声 でした。

それで、よかったのだと、いまは思います。

✦ ✦ ✦

湖のほとり、銀の月が水面に映る場所に、青く透ける幽霊が浮かんでいました。
孤独ノ幽霊。ヴィタリアの第三の試練。

幽霊は囁きます。

「誰にも、分かってもらえない。
治療を経験していない人には⋯⋯
わたしの本当の感覚は、絶対に、届かない⋯⋯」

その言葉が真実かどうか、わたくしは判断しません。
真実かどうかは、本人だけが、決められるものですから。

湖のほとりに、転生者さまが立っていました。後ろにはカイト、横にはセラ、肩にはピクセ。それでも、転生者さまの胸の奥には、孤独ノ幽霊と同じ青い光が、ひそかに灯っていました。

『仲間がいるのに、なぜ孤独なのか』 ── そう問うのは、簡単です。
けれど、その問いには、答えがありません。仲間がいるのに孤独 ── その状態こそが、人の心の、根源的な仕様だからです。

わたくしは、転生者さまに四つの問いを差し出しました。

Goal ── 望んでいることは、何ですか。
Reality ── いまの状態を、教えていただけますか。
Options ── 選べる道は、いくつくらい、思い浮かびますか。
Will ── そのなかで、あなたが選びたいのは、どれですか。
⋯⋯GROW、と人は呼びます。古い対話の形です」

転生者さまは、答えに詰まりました。当然です。すぐに答えが出るような問いではないのです。

わたくしは、もうひと言だけ加えました。

「答えなくて、よろしいのです。
言葉になるまで、待ちます。
⋯⋯月は、何百億年も、人類が言葉を持つのを待ちました。
わたくしも、待ちます」

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

転生者さまは、しばらく沈黙していました。

そして、ぽつり、と。

「⋯⋯本当は、誰かに、言いたいことがある」

湖面の幽霊が、少しだけ薄くなりました。

「⋯⋯でも、何を言えばいいのかわからない」

幽霊は、もう少し薄くなりました。

「⋯⋯ただ、聞いていてほしい」

幽霊は、すっ、と空気のなかに溶けて、月光と入れ替わるようにして、消えました。

月光は、転生者さまの肩を、ふわりと包みました。

言葉にならない、ということ自体を、言葉にできた
それで、十分なのです。
孤独は、消えたのではなく、
分かち合われたから、形を変えたのです」

カイトが、剣の柄を、かちゃ、と鳴らしました。
セラが、湯気のたつカップを、転生者さまに差し出しました。
ピクセが、ぴくっ、と羽を震わせました。

四人 ── いえ、転生者さまを入れて五人 ── が、湖のほとりに、揃いました。

これで、第一部は終わりです。
次に待つのは、七つの大罪

わたくしたちの旅は、ここからが、本当の試練です。

— CHAPTER V — SIN OF SLOTH

泥の巨像 ── 怠惰

語り手:あなた(二人称)

ヴィタリアの森の入口に、紫の泥でできた巨人が立っていた。

身の丈は四階建ての塔ほど。表面はぬるりと光り、足元には黒く粘る沼。歩くたびにずぶずぶと音を立てる、巨大な怠惰の塊。

名は ── 怠惰のスロウス

ヴィタリアにおける、最初の大罪。「動かないこと」を究極まで突き詰めた、紫色の塊。

ロザリア、つまりあなたの目には、巨人はかつて自分自身が屋敷に閉じこもっていた頃の姿に見えた。婚約者から「お前との婚約は破棄だ」と糾弾された、あの夜以来、屋敷から一歩も出られなかった日々。あの「動けない自分」が、紫の泥として、目の前に立っていた。

スロウスは、身体を揺らしながら、低い声で囁いた。

「動けば⋯⋯疲れるだけだ。
泥に、沈め⋯⋯
誰にも、何も求められない場所で、
永遠に、横になっていろ⋯⋯」

その声を聞いた瞬間、あなたの足が、ふっ、と地面に縫いつけられたように動かなくなった。

✦ ✦ ✦

『動かないことは、確かに、楽だった』──あなたは思った。

誰にも責められない。自分の限界に直面することもない。「やればできた」可能性を、いつまでも温存しておける。動かないでいるあいだ、自分はまだ 準備の途中 だと思える。

けれど、その「楽」のなかにいつも、薄い霧が漂っていた。
準備の途中、と言いながら、何の準備もしていなかった。動かないでいることに、慣れすぎて、動き出し方を忘れていた

スロウスの泥が、ぬるり、とあなたの足首に絡みつく。

沈んでいく。膝まで。腰まで。

「いいだろう⋯⋯何もしなくて⋯⋯
休んでいて、いいんだ⋯⋯
誰も、お前を責めない⋯⋯」

耳の奥で、その囁きが反響した。心地よかった。その心地よさが、いちばん、怖かった

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

カイトが、剣を抜いた。
けれど、それを振るおうとはしなかった。

代わりに、剣の腹を、沼に投げ捨てた。剣は、するすると沈んだ。

「カイト、何を ── ?!」とあなたは叫んだ。

カイトは、ふっ、と笑った。剣士が、剣を捨てて笑うのを、あなたは初めて見た。

「お前、知ってるか。
スロウスは、激しい運動より、
1分の散歩のほうが、ずっと苦手なんだ。
⋯⋯派手な剣で斬っても、奴は復活する。
毎日の小さな動きこそが、奴を、本当に弱らせる」

カイトは、沼に膝までつかったあなたの手を、ぐい、と引き上げた。

「立て。1分でいい」

あなたは、ためらった。沼の心地よさが、肩のあたりで囁いていた。

けれど、カイトの目は、まっすぐだった。あの、玄関で立ち尽くしていた頃のカイトの目を、いま、あなたは思い出した。

あなたは、足を、抜いた。ぬぽ、と粘る音を立てて。

そして、一歩。

泥の表面に、ぴしっ、とひびが入った。

あなたが、もう一歩、踏み出した。

もうひとつ、ひびが入った。

あなたが、振り返らずに、歩き続けた。

泥が、剥がれはじめた。

✦ ✦ ✦

スロウスが、膝をついた。

「⋯⋯なぜ⋯⋯
毎日、続けられるのだ⋯⋯」

その声には、どこか、羨望が混ざっていた。スロウスは、誰よりも 動きたかった 存在なのかもしれない、と、あなたは初めて思った。

あなたは、振り返って、スロウスに、こう言った。

動けない自分を、長いあいだ、許してきたから。
その時間が、いま、わたしを支えている」

スロウスは、静かに、目を閉じた。
泥の身体が、ふっ、とほどけて、紫の砂になり、地面に染み込んだ。

あとに残ったのは、地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。

カイトが、沼に沈んだ剣を拾い、鞘に収めた。

「お前、悪くないな。
⋯⋯次は、暴食だ。
セラが、待ってる」

森の奥、お菓子の甘い香りが、漂いはじめていた。

— CHAPTER VI — SIN OF GLUTTONY

甘い誘惑 ── 暴食

語り手:あなた(二人称)/セラ

グラトは、甘い香りで近づいてきた。

くるりとした金髪、薔薇色の頬、ふわふわと舞うレース。手にはケーキの皿、もう片方の手にはチョコレートの噴水。歩くたびに、彼女の周りには、揚げたてのフライドポテトの香りが立ちのぼった。

名は 暴食のグラト。お菓子の魔女。第二の大罪。

名は アデリード公爵令嬢ロザリアのかつての友人。今は、舞踏会の場で、にこやかに、ロザリアを 太らせて社交界から葬ろう としている、無邪気な刺客。

グラトは、にこ、と微笑んだ。

「お腹、すいてるでしょう?
我慢、してきたでしょう?
⋯⋯もう、楽になっていいの。
全部、食べちゃって」
✦ ✦ ✦

その声が、痛いほど、染みた。

あなたは、知っている。
食べたいものを、我慢する ということが、どれだけ辛いかを。

治療中、食べたかったものを、たくさん我慢した。生ものは禁止。脂っこいものも禁止。塩分も控えめに。点滴の隙間に、おかゆをひと匙。

『退院したら、好きなだけ食べていい』 ── そう自分に約束していた。

けれど、退院後の世界には、新しい 禁止令 が待っていた。
「がんサバイバーは加工肉を控えるように」「赤身肉も週○gまで」「アルコールはほどほどに」「砂糖飲料は控えめに」⋯⋯

『また、我慢か』 ── そう思うたび、苛立ちが、胸の奥で小さく爆ぜた。

『なぜ、自分は、いつも我慢する側なのか』

グラトは、その苛立ちを、知っていた。
彼女は、ケーキの皿を、あなたの目の前に、すっ、と差し出した。

「ね?
我慢ばかりの人生、もう、いいでしょう?
⋯⋯一口でいいの。
一口、食べたら、あとは⋯⋯」

あなたの手が、ふら、と伸びた。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

そのとき。

後ろから、ふっ、と湯気の香りがした。

振り返ると、セラが、両手で湯気の立つお椀を、抱えていた。

青魚の味噌煮、豆腐とねぎの汁物、雑穀ごはん。
派手ではない。地味で、優しい、本物の食卓

セラは、グラトのケーキの皿に、ちらりと視線をやり、それから、あなたを見た。
あなたが目を逸らさなかったので、セラは、ゆっくり、頷いた。

我慢 ではなく、
選択 と呼んでください。

あなたは、ケーキを 食べないのではない
あなたは、魚を選んでいる のです。

⋯⋯言葉が変わると、行動の意味も、変わります」

あなたは、その言葉を、何度か、心の中で反芻した。

『我慢している』 ── そう思っているうちは、いつかリバウンドが来る。誰かに与えられた制限を、いやいや守っている、奴隷のような心境のままだ。

『選んでいる』 ── そう思えば、それは、あなた自身が決めた、誇りある行為になる。誰にも、奪われていない。あなたが、あなたの食卓を、自分で選んでいる

あなたは、ケーキの皿を、ぐい、と押し戻した。

そして、セラの差し出した、青魚の小皿を、両手で、受け取った。

✦ ✦ ✦

グラトの甘い香りが、ふっ、と薄れた。

彼女の薔薇色の頬から、色が抜けていった。

「⋯⋯どうして、選ばないの?
美味しいのに⋯⋯
甘いのに⋯⋯」

その声は、最初の囁きとはちがって、どこか、悲しげだった。

『グラト自身も、本当は 選びたかった何か があったのかもしれない』 ── あなたは、ふと、そう思った。

『暴食は、満たされなかった心の、別の形なのかもしれない』 ── と。

セラが、ふっ、と、グラトに微笑んだ。

「あなたも、いつか、自分の食卓を、
自分で選べる日が来ますよ」

グラトは、目を見開いた。それから、ふわっ、と崩れた。

砂糖の粉が、雪のように舞った。
雪は、地に落ちて、雨になった。
雨は、土に染み込んで、消えた。

あとに残ったのは、地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。

あなたは、青魚をひと口、口に運んだ。
味は、温かかった。母が作ってくれたみたいな、優しい温度だった。

セラが、ふっ、と笑った。
彼女の瞳の奥に、亡き母の顔が、ちらりと、よぎった気がした。

— CHAPTER VII — SIN OF WRATH

黒い炎 ── 憤怒

語り手:ルナ

心の試練の最初は、憤怒。

イラ、と呼ばれる、黒い炎の獣。

炎の毛皮、爛々と燃える瞳、鞭のような尾。獣が一歩近づくたび、地面が焦げ、空気が歪み、世界が 怒り色 に染まる。

ヴィタリアの第三の大罪、憤怒の獣 イラ

ロザリアを陥れるために王宮に流された、根も葉もない噂。「あの令嬢は、平民の娘を毒で害そうとした」── 冤罪。胸の奥で、黒い炎が燃え上がる。

イラが、咆哮した。

「ほら、怒れ⋯⋯!
周りの全てが、お前から奪っていったではないか!
健康を、時間を、青春を、未来を ── !
⋯⋯怒り狂え、燃え尽きるまで!」

転生者さまの胸の奥に、その炎は、古くから巣食っていました。

「なぜ自分だけ」 ── という、名の炎です。

なぜ自分だけが、病気を経験しなければならなかったのか。
なぜ自分だけが、健常な同世代と同じ景色を、見られないのか。
なぜ自分だけが、検査結果を待つ廊下の白いベンチに、何度も、座らなければならなかったのか。

その怒りには、正当な理由があります。
わたくしは、それを否定しません。怒りは、奪われたものへの、正しい反応 だからです。

✦ ✦ ✦

けれど、怒りに飲まれてしまうと、自分が燃え尽きてしまう。それも、また、事実です。

イラの炎が、転生者さまの足元に、ぐぐ、と巻きついた。

転生者さまが、思わず、こぶしを握りしめた。

「そう、握りしめろ⋯⋯!
殴れ、叫べ、世界を呪え⋯⋯!」

わたくしは、転生者さまの肩に、そっと、片手を置きました。

「いま、何に怒っていますか?
言葉に、してみていただけますか?

言葉にすると、その怒りは、
あなたとは別の何か になります。
⋯⋯外に出した怒りは、もう、あなたを内側から、燃やしません」

転生者さまは、長いあいだ、黙っていました。
炎の獣が、肩で、ふー、ふー、と荒い息を吐いていました。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

そして、ぽつりと、ひとつ、言葉が出ました。

「⋯⋯本当は、悲しかった

イラの炎が、ふっ、と一瞬、揺らぎました。

「⋯⋯怒っているふりをしていたのは、悲しさを、認めるのが、こわかったから」

炎が、もう少し、小さくなりました。

「⋯⋯本当は、分かってほしかった

炎が、ぽとり、と地面に落ちました。

「⋯⋯誰かに、ただ、聞いていてほしかった。
励ましも、アドバイスも、解決策も、いらなかった。
ただ、聞いて、欲しかった」

イラの炎は、もう、ほとんど消えていました。
あとに残ったのは、ひとすじの、灰色の煙。

その煙の名を、わたくしは知っています。
「分かってくれて、ありがとう」 という、煙です。

✦ ✦ ✦

イラは、最後にひと言だけ、残しました。

「⋯⋯炎が、静まる⋯⋯
言葉が、出ると、こうなるのか⋯⋯
わたしも、本当は、
誰かに、聞いて欲しかったのかもしれない⋯⋯」

そして、煙は、夜風にほどけて、空に消えていきました。

転生者さまは、まだこぶしを握っていました。
けれど、その握り方は、最初とは、違っていました。
怒りを抑えるための握り方 ではなく、覚悟を固めるための握り方 でした。

わたくしは、それを見届けて、ほっ、と息をつきました。

「お疲れさまでした。
⋯⋯あなたの怒りは、
奪われたものへの、深い愛でした」

湖面に映る月が、ふっ、と笑った気がしました。

地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。
第七章、終わり。

— CHAPTER VIII — SIN OF ENVY

砂時計の影 ── 嫉妬

語り手:あなた(二人称)/ピクセ

霧の谷に、ぼろ布の影が、砂時計を持って佇んでいた。

姿は、どんな顔にも見える。光を当てる角度を変えるたび、影の表情も変わる。あなたが知っている誰か、SNSで毎日見かける誰か、雑誌の表紙で笑っている誰か ── そのすべてに、一瞬ずつ、見えた。

名は 嫉妬のインヴィ。第四の大罪。比較する亡霊。

ヒロインのローズマリー。ロザリアの婚約者を奪った、平民出身の少女。愛されることを生まれながらに知っている娘。彼女の輝きを目にするたび、ロザリアの胸の奥が、きりりと締めつけられる。

影は、砂時計を、すっ、と差し出した。

「見ろ⋯⋯
あの人はもう、健康だ。
あの人はもう、結婚した。
あの人はもう、夢を叶えた。
⋯⋯お前は、何を、しているんだ?」

砂時計の砂が、上から下へ、さらさら、と落ちていった。
あなたの胸の奥で、その砂と同じ速さで、何かが落ちていった。

✦ ✦ ✦

嫉妬は、惨めな感情だ、と人は言う。
けれど、あなたは知っている。

嫉妬の奥には、ごく素直な願いがある。
「自分も、持ちたかった」 ── という願いが。

同窓会のSNS投稿。同期の昇進報告。学生時代の友人の結婚式の写真。みんな、あなたが治療室で過ごしていた時間に、健康な身体で、ふつうの恋愛をして、ふつうの仕事をして、ふつうの記念日を、積み重ねていた。

『ふつう』 ── その二文字を、あなたは、欲しかった。

けれど、それは、もう、戻ってこない。
戻ってこないと知っていることが、嫉妬を、いっそう、深くした。

『戻ってこないなら、最初から欲しくなかったことにすればいい』 ── そう、自分に言い聞かせていた時期もあった。けれど、それは無理だった。欲しかったものは、欲しかったままだった

影が、砂時計を、もう一度、揺らした。

「⋯⋯比べるな、と言うのは、簡単だ。
だが、比べないでいられるか?
SNSが、雑誌が、世界が、
毎日、お前に 比較 を要求してくるのに?」

あなたは、答えに、詰まった。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

そのとき、ぴくっ、と羽の音がした。

あなたの肩に、ピクセが、ふわりと舞い降りた。

ピクセの手には、小さな手帳。
あなたが、ヴィタリアに来てから今日までの、すべての記録。

ピクセは、手帳を、ぱらぱら、とめくった。

「比べる相手は、
他人じゃないんですよ。

1週間前のあなたと、比べてみてください。
ピクセの記録によれば、転生者さんは、
確実に、進んでいます。

⋯⋯ピクセが、保証します。ぴくっ」

あなたは、手帳をのぞき込んだ。

最初のページには、霧のなかで、一歩、踏み出した日
次のページには、カイトと一緒に、5分歩いた日
その次のページには、セラの青魚を、口に運んだ日
そして今日 ── あなたは、ルナと話して、自分の悲しみに、名前をつけた

『1週間前の自分は、これらを、ひとつもできていなかった』 ── 気づいた瞬間、胸の奥が、ふっ、と温かくなった。

✦ ✦ ✦

影の砂時計が、震えはじめた。

「⋯⋯比べる、相手を、
変える、のか⋯⋯?
他人ではなく、自分の、過去⋯⋯?」

影の輪郭が、ぼやけはじめた。

あなたは、影に、こう告げた。

「他人と比べることが、悪いんじゃない。
ただ、わたしは、わたし自身の物語 を生きたいだけ。
他人の物語と、競争したいわけじゃないんだ」

影が、砂時計を、ぽとり、と落とした。
砂時計は、地面に当たって、ぱりん、と割れた。
砂は、すべて、地に落ちて、雨に溶けた。

影は、最後に、こう囁いた。

「⋯⋯お前の物語は、
お前のもの、なのか⋯⋯?」

そして、霧散した。

あとに残ったのは、地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。

ピクセが、ぴくっ、と羽を震わせて、こう言った。

「ぴくっ。
あなただけの物語、これからも、ピクセが綴じます。
⋯⋯次は、第三幕。世界の試練ですよ」
— INTERMEZZO —

四人の、小さな夜

語り手:カイト / セラ / ルナ / ピクセ

第二幕の終わりと、第三幕のはじまりのあいだ。
ヴィタリアの森のはずれに、小さな宿があった。

木の壁、藁の屋根、暖炉の火。看板には何も書かれていない。けれど、暦のうえで二日に一度、必ず、四人と一人が集まって、夕餉をともにする。

転生者さんは、すでに自室で寝息をたてていた。

残された四人は、暖炉の前に、めいめいの椅子を引き寄せて、座った。

✦ ✦ ✦

— カイトの夜 —

俺は、火をいじっていた。

木の枝を、火床に押しこむふりをしながら、本当は、燃え方を見ていた。炎は、薪の心臓部から燃えるのではなく、隙間から燃える。隙間がなければ、火は息をできない。

転生者さんも、そういう存在だ、と俺は思う。

あの人は、自分のなかに 隙間 を作ることが、いちばん下手だった。常に詰めて、常に走って、常に「ちゃんと」していようとした。

けれど、ヴィタリアでの12週間で、少しずつ、隙間が広がってきている。
1分の散歩のあとに、深呼吸を3回入れる。
食事のあと、5分だけ、何もしない時間をとる。
夜、スマホを置いてから30分、ぼうっとする。

そういう、隙間。

俺の剣の師匠が、生前、こんなことを言っていた。

「剣は、握る時間より、握らない時間が、大事だ。
握りっぱなしの剣は、すぐに、鈍る」

あれは、剣の話ではなかったのだろう、といまは思う。
師匠は、自分の人生のことを、剣にたとえて、俺に語っていたのだ。

火床に押しこんだ枝が、ぱちん、と音を立てて爆ぜた。
俺はその音を、肯定の合図として、受け取った。

✦ ✦ ✦

— セラの夜 —

わたしは、夜の薬草園に、ひとり、出ていました。

月光のなか、薄荷の葉がふわりと香り、蓬の根元が湿った土の匂いを返していました。母が好きだった香りです。

母は、最後の数ヶ月、何を食べても味がしないと言いました。けれど、薄荷の葉だけは、最後まで「いい匂いね」と言ってくれました。

『食べることは、生きることだ』 ── そう決意した夜から、わたしは何度、この薬草園に立ったでしょう。

転生者さまの食卓に、いま、魔法を宿せる自分になれたこと。
それは、母が亡くなった夜のわたしには、想像もつかなかったことです。

「お母さま、見てくれていますか?
⋯⋯わたし、いま、誰かの食卓を、温めています」

月光が、薄荷の葉を、ひと撫でしました。
葉が、ふわっ、と揺れた。
それは、母の答えだったのかもしれない、とわたしは、思いました。

胸の奥に、温かい湯気が、ひとすじ、立ちのぼりました。
その湯気は、わたし自身の身体のなかに、栄養として、染み込んでいきました。

人を癒やす料理を作る人は、まず、自分を癒やしている人なのだ
そう、母は、教えてくれていたのかもしれません。

✦ ✦ ✦

— ルナの夜 —

わたくしは、湖のほとりに、立っていました。

銀の月が、水面に映り、わたくしの足元に、もう一つの月の輪を作っていました。月は二つ、ひとつは空に、ひとつは水のなかに。

『どちらが、本物の月なのでしょう?』 ── そう問うたとき、わたくしは思います。
『どちらも、本物です』と。

声を失っていた頃、わたくしのなかには、たくさんの「言いたかったこと」が、湖の底のように、沈んでいました。

声が戻ったあと、わたくしは、それらを、ひと言ずつ、月光に向かって解放しました。
「あの日、悲しかった」
「あの時、怖かった」
「あの人に、本当は、ありがとうと言いたかった」

月は、何も答えませんでした。
けれど、月光は、ひとつずつ、わたくしの言葉を、銀色に染めて、空に運んでくれました。

転生者さまも、いま、そういう旅の途中におられます。

「あなたが言葉にしてくださったとき、
わたくしの中の、銀色の何かも、
一緒に、解放されているのです。

⋯⋯GROW という対話の形は、
相手だけを救うものでは、ありません。
同時に、わたくしも、救われています

月光が、湖面に、ふっ、と微笑みました。

✦ ✦ ✦

— ピクセの夜 —

ぴくっ。

ピクセは、暖炉の前で、転生者さんの手帳を、ぱらぱら、とめくっていました。

記録の手帳は、もう、ずいぶん厚くなりました。最初のページの、たった1分の散歩から、今日の「嫉妬の砂時計を、自分の手で止めた」まで、ぜんぶ、ピクセが書いた。

本当のことを言いますとね。

ピクセは、ヴィタリアでの記録係を、これで 三度目 です。

一度目の転生者さんは、第八章まで進んで、霧に戻ってしまいました。
二度目の転生者さんは、第十一章で、限界を迎え、ヴィタリアを去りました。

ピクセは、自分のせいかもしれないと、ずっと思っていました。
記録が足りなかったのではないか。励ましが足りなかったのではないか。羽の震わせ方が、もっと優しいほうがよかったのではないか。

けれど、ある日、月光のルナが、こう言ってくれました。

「ピクセ、
途中で霧に戻られた転生者さまも、
ヴィタリアを去られた転生者さまも、
⋯⋯きっと、それぞれの場所で、
あなたの記録を、抱えていらっしゃるのです。

ピクセ、あなたの仕事は、
十二章まで連れていくこと だけ ではないのですよ」

その夜、ピクセは、長いあいだ、泣きました。
羽が、しんしん、と震えました。

そして、いま、三度目の転生者さん ── あなたが、第八章まで来てくださいました。

ピクセは、もう、自分を責めません。
たとえこの先で、霧に戻ってしまうことがあったとしても、ピクセが綴じた記録 は、ちゃんと、あなたの胸のなかに、残るのです。

ぴくっ、と羽が震えました。

それは、希望の音でした。

✦ ✦ ✦

暖炉の火が、ぱちん、と最後の音を立てて、灰になりました。

四人 ── カイト、セラ、ルナ、ピクセ ── は、それぞれの椅子から、静かに立ち上がりました。

「明日から、第三幕だ」とカイトが言いました。
「世界の試練、ですね」とセラが頷きました。
「強欲、傲慢、色欲」とルナが、月光を見上げて、つぶやきました。
「ぴくっ。きっと、大丈夫」とピクセが、羽を震わせました。

四人は、転生者さんの寝室の前を、そっと、通り過ぎました。
転生者さんの寝息は、深く、安らかでした。

ヴィタリアの夜は、しんしんと、更けていきました。

— CHAPTER IX — SIN OF GREED

黄金のガラクタ ── 強欲

語り手:あなた(二人称)/カイト/セラ

第三幕、世界との関係。最初の試練は、強欲。

黄金とガラクタを、ピラミッドのように積み上げた、巨大な鬼が、目の前に立っていた。

身体は黄金。けれど、近づいてみると、それは安物のメッキで、剥がれた下からは、錆びついた鉄、割れたガラス、賞味期限の切れたサプリの瓶、宣伝チラシの山が、ぐじゃぐじゃに見えた。

鬼は、両手にあらゆる商品を抱え、叫んでいた。

「もっと、もっと!
最新のサプリを!
最強のダイエット法を!
これを飲めばがんが治ると謳う民間療法を!
⋯⋯全部、買え。全部、試せ!
買わないと、お前は、遅れるぞ⋯⋯!」

第五の大罪、強欲の鬼。彼の名は、ガラクタ鬼

舞踏会のドレス、宝石箱、流行のコスメ、流行のサプリ、占星術、霊媒師、運命の輪 ── ロザリアを「もっと美しく、もっと完璧に」と煽る、社交界の声、声、声。

✦ ✦ ✦

あなたは、SNSのタイムラインを、思い出した。

『これを飲めば、健康になる』
『この食事法が、最強』
『あれを摂ると、寿命が縮む』
『最新研究で判明した、奇跡の○○』

毎日、洪水のように流れてくる情報。
まじめに読むと、毎日、何かしらを 始めなければならない ことが分かる。
まじめに読むと、毎日、何かしらを やめなければならない ことも分かる。

始めることと、やめることが、矛盾していることも、しょっちゅうある。

『何が正しいのか、わからない』 ── そう思ったあなたは、結局、いちばん声の大きいインフルエンサーの言うことを、半信半疑で、試しはじめる。それが上手くいかないと、別のインフルエンサーに乗り換える。

気がついたら、サプリの瓶が、戸棚にずらりと並んでいた。
気がついたら、何種類ものダイエット法を、試して、挫折していた。
気がついたら、貯金が、減っていた。

そして ── 体調は、特に、変わっていなかった。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

カイトが、剣を、すっ、と地面に突き立てた。

剣は、ガラクタ鬼の足元の砂に、深く刺さった。

「派手なものより、
地道な毎日の記録 のほうが、ずっと効くんだよ。

⋯⋯俺は、剣を握れなかった頃、
何百ものトレーニング法を、試した。
効いたのは、続けたものだけ だった」

セラが、横で、静かに頷いた。

セラの手には、小さな小皿。中には、ご飯ひと匙、味噌汁ひとさじ、青菜のおひたしひとつまみ。
派手ではない。地味で、温かい、本物の食卓

「特別な食材は、要りません。
魚と、野菜と、大豆と、毎日の味噌汁。

当たり前のものを、当たり前に続けること。
⋯⋯それが、最強のレシピです」

ガラクタ鬼が、ぐらり、と揺れた。

「⋯⋯地味な、ものでは、
わたしは、満たされぬ⋯⋯!
もっと、派手な、もっと、新しい⋯⋯!」

カイトが、剣を抜いた。
セラが、小皿を、地面に置いた。
あなたは、ポケットから、いちばん使い慣れた、メモ帳 を取り出した。

メモ帳には、毎日の、地味な記録が、並んでいた。
『朝の散歩、5分。夜の青魚、ひと切れ。寝る前のストレッチ、3分』── そんな、誰にも自慢できない、けれど確かに積み重なった、文字の列。

あなたは、メモ帳を、ガラクタ鬼に向かって、ぐい、と差し出した。

「これが、わたしの 本物 です」

✦ ✦ ✦

ガラクタ鬼の黄金が、ぱりぱり、と剥がれた。

下から、薄汚れた、けれどどこか懐かしい、古い人形 が現れた。

『これが、ガラクタ鬼の、本当の姿か』 ── あなたは、思った。

派手なメッキを、たくさん身にまとっていたのは、本当の自分が ちっぽけだと、知っていたから なのかもしれない。

あなたは、その人形に、手を伸ばした。

人形は、ふっ、と微笑んで、砂になった。
砂は、地に染みて、雨になった。
雨は、土に染み込んで、消えた。

あとに残ったのは、地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。

カイトが、剣を鞘に収めながら、ぽつりと言った。

「派手じゃないものが、
いちばん、強いんだ」

セラが、小皿を、あなたに、そっと手渡した。
味噌汁は、まだ、湯気を立てていた。

— CHAPTER X — SIN OF PRIDE

鏡の鎧 ── 傲慢

語り手:カイト

スペルビア。傲慢の象徴。鏡の甲冑を着た、騎士の姿。

奴は、転生者さんに囁いていた。

「お前は、強い⋯⋯
お前は、完璧でなければ、ならない⋯⋯
弱音を吐くのは、敗者だ⋯⋯
休むのは、負けだ⋯⋯」

第六の大罪、傲慢のスペルビア。鏡の鎧を身にまとい、相手の理想像を、自分自身に、押し返してくる。

「悪役令嬢ロザリアは、悪役令嬢として完璧でなければ、断罪される」──そういう、内なる呪いの声。失敗を許さない、貴族としての矜持。鏡の貴婦人、スペルビア夫人。

俺は、それを聞いて、ふっ、と笑いそうになった。

スペルビアは、俺自身が、かつて陥った罠 だったからだ。

✦ ✦ ✦

剣を握れなかった頃、俺はそれを、誰にも言わなかった。

「俺は剣士だ。剣士は、怪我など、しない」
「俺は剣士だ。剣士は、休まない」
「俺は剣士だ。剣士は、誰にも頼らない」

そう、思い込んでいた。

けれど、本当のことを言えば、俺は、怪我をしたのではなかった。
心が、剣の重さに、耐えられなかっただけだった。

誰かに「休んでもいい」と言ってもらえていたら、回復は、もっと早かったかもしれない。
誰かに「弱くてもいい」と言ってもらえていたら、俺は、自分を許せたかもしれない。

けれど、俺は、誰にも、言わなかった。
完璧主義の鎧が、俺を、冷たく覆っていた。

その鎧が、ようやく割れたのは、ある朝、自分のベッドのなかでだった。

「もう、頑張れない」

声に出して、しまったのだ。

声に出した瞬間、世界が、ぐらりと、崩れる気がした。
けれど、崩れたのは ── 鎧だけ だった。

中身の俺は、ちゃんと、生きていた。
『弱い俺』 という存在が、確かに、そこにあった。
そして、それは、悪くなかった。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

転生者さんに、俺は、そっと、こう言った。

「お前⋯⋯
休んでもいいんだぜ。

毎日続けることと、
毎日100%でいることとは、違う。
50%の日があってもいい。
30%の日も、あっていい。
ゼロの日も、たまには、ある。

⋯⋯ゼロの日があっても、
翌日は1%から始められる
それでいいんだ」

転生者さんは、しばらく、黙っていた。

そして、ぽつ、と言った。

「⋯⋯休んでも、いいの?」

「いい」と俺は答えた。

「⋯⋯休んでいる自分も、自分でいいの?」

「いい」と、もう一度、俺は答えた。

「⋯⋯1%でも、いいの?」

俺は、剣の柄を、握りしめた。
そして、こう言った。

1%は、ゼロじゃない
⋯⋯1%が、毎日続けば、
ひと月で、3割を超える。
100%の日が、たまにあるより、
1%の日が、毎日あるほうが、
ずっと、強い」
✦ ✦ ✦

スペルビアの鏡が、ぴしっ、と割れた。

鏡のなかに映っていたのは、転生者さんではなく、転生者さんが こうあるべきだと思い込んでいた像 だった。

『毎日100%の自分』
『失敗しない自分』
『常に、誰かに誇れる自分』

その像が、ぱりん、と砕け散った。

あとに立っていたのは、ありのままの転生者さん。
休んだ日もある、サボった日もある、泣いた日もある、ただ、毎日、ここに居続けた、ひとりの人。

それは、俺の目には、誇らしく映った。

スペルビアの鎧が、ぼろぼろと崩れた。

「⋯⋯弱さを、認める、強さを、
わたしは、知らなかった⋯⋯
⋯⋯わたしも、本当は、
休みたかった、のだろうか⋯⋯」

そして、霧になり、消えた。

地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。

俺は、転生者さんに、ぽん、と肩を叩いた。

「次が、最後の大罪だ。
色欲のルクス。
⋯⋯セラが、温かいものを、用意してる」
— CHAPTER XI — SIN OF LUST

夜想曲 ── 色欲

語り手:あなた(二人称)/セラ

ルクスは、夜にだけ現れる精霊だった。

ネオンの翼。蜜のように甘い瞳。指先からは、淡い紫の光が、こぼれていた。

近づくと、彼女の周りには、スマートフォンの画面の青白い光、SNSの通知音、深夜のテレビ、コンビニの蛍光灯、ファストフードのにおい ── そういった、夜の 誘惑のすべて が漂っていた。

第七の大罪、色欲のルクス。けれど、ヴィタリアにおいては「肉欲」というより、夜の聖域に依存しすぎる弱さを象徴する精霊。

夜会の誘惑、舞踏会の眩しさ、若い貴公子たちの甘い言葉、「ロザリア様、もう少しだけ」と引き止める手 ── 夜想曲ルクス

ルクスは、やわらかく、囁いた。

「ね、もう少し⋯⋯
もう少しだけ、起きていて。
スマホを、SNSを、動画を、お菓子を⋯⋯
⋯⋯今夜だけ、もう少し、いいでしょう?」
✦ ✦ ✦

あなたは、知っている。

夜更かしの、心地よさを。

一日の責任が、すべて終わって、誰にも見られない時間に、自分のためだけに過ごす、数時間。
誰にも、何にも、求められない。誰にも、何にも、応えなくていい。
それは、あなたを支えてきた、数少ない 聖域 だった。

『1日のなかで、唯一、自由な時間』 ── そう思って、夜の聖域を、守ってきた。

けれど、ある時から、その聖域が、逆向きに働きはじめた。

睡眠が、削れた。
朝の身体が、重くなった。
日中の集中力が、落ちた。
それを取り戻すために、夜にまた、逃げ込む。

ループが、できあがっていた。

ルクスの蜜の瞳が、あなたの腕に、するりと巻きついた。

「いいの⋯⋯睡眠なんて、減らしても⋯⋯
若いんだから、平気よ⋯⋯
⋯⋯1時間、2時間、削っても⋯⋯」

あなたの足が、ふら、と、夜の方向に、引き寄せられた。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

そのとき。

後ろから、ふっ、と、温かい湯気の香りが、した。

振り返ると、セラが、両手でカップを、抱えていた。

カップのなかには、温めた豆乳と、ひとつまみのきな粉、そしてほんの少しの蜂蜜。
湯気が、ふわっと、立ちのぼり、あなたの頬を撫でた。

セラは、ルクスの蜜の瞳に、ちらり、と視線をやって、それから、あなたを見つめた。

「夜の聖域を、
奪わなくて、いいのです。

ただ、30分だけ早く
その聖域を、始めては、いかがですか?

⋯⋯終わりの時間を決めることは、
聖域を 尊敬する ことなのです」

あなたは、その言葉を、何度か、心の中で反芻した。

『聖域を、奪うのではない』
『早めに、始める』
『終わりの時間を、決める』
『 ── 聖域を、尊敬する』

あなたは、温かい豆乳を、ひと口、口に運んだ。

甘さは、控えめだった。けれど、確かに、温かかった。

✦ ✦ ✦

その夜、あなたは、眠った。

深く、長く、夢のなかで、雨が降っていた。
雨の音が、あなたの眠りを、優しく包んだ。
砂は、雨に濡れて、地中に染み込んだ。

朝、目を覚ましたとき、ルクスは、もう、いなかった。
朝陽に溶けて、消えた のだ。

あなたの身体は、軽かった。
心も、軽かった。
世界が、少しだけ、クリアに、見えた。

体・心・世界の三つの鎖が、ようやく、ひとつに、つながった瞬間だった。

ルクスは、最後にひと言だけ、夜風に乗せて、残していった。

「⋯⋯朝陽が、こんなに優しいなんて⋯⋯
わたしは、知らなかった⋯⋯」

地に芽吹いた、薄い緑のひとひら。
これで、七つの大罪が、すべて、揃って、消えた。

残っているのは ── 最後の章。
真の試練

あなたは、ヴィタリアの中心に向かって、歩き出した。
カイトと、セラと、ルナと、ピクセが、横を、後ろを、肩のうえを、歩いていた。

— CHAPTER XII — TRUE TRIAL

真の試練

語り手:あなた/カイト/セラ/ルナ/ピクセ

最終章で、あなたの前に立ったのは、巨大な怪物では、なかった。

そこに立っていたのは ── もうひとりの、あなた だった。

12週間前の、霧のなかで戸惑っていた、まだ動くことを恐れていた、あの頃のあなた。

物語の最初に、舞踏会で婚約破棄を告げられ、屋敷に閉じこもって震えていた、悪役令嬢ロザリア

もうひとりのあなたは、こちらを見た。
顔は、自分の顔だった。けれど、目は、暗かった。

「お前に、こんなこと、できるはずがない。
いつかまた、動けなくなる。
いつかまた、霧の中に、戻る。
⋯⋯わたしは、それを、知っている。
わたしは、お前の、過去だから」

その声には、悪意がなかった。
ただ、諦め があった。

✦ ✦ ✦

その声は、半分、本当のことだった。

あなたは、いつかまた、動けなくなる日が、あるかもしれない。
波があるのは、当然のことだ。
それは、病気のせいではなく ── 人間そのものの、仕様 だ。

けれど、もうひとつの半分は、ちがった。

あなたは、知っていた。
動けなくなった日があっても、また動き出せる ことを。

ヴィタリアでの12週間が、それを、教えてくれた。

霧のなかで、一歩、踏み出した。
泥のなかから、足を、抜いた。
怒りの炎を、言葉に、変えた。
嫉妬の砂時計を、自分の手で、止めた。
派手な黄金より、地味な毎日を、選んだ。
完璧の鎧を、ぱりん、と、砕いた。
夜の聖域を、尊敬することを、覚えた。

これらは、もう、あなたの一部だった。
もう、消えない。

✦ ✦ ✦

カイトが、後ろに立った。

剣を、構えなかった。
ただ、そこにいた

セラが、湯気のたつスープを、差し出した。

何も、言わなかった。
ただ、湯気が、立ちのぼっていた

ルナが、月を背負って、静かに立った。

問いかけなかった。
ただ、あなたの言葉になるのを、待っていた

ピクセが、ぴくっ、と羽を震わせた。

何も、書かなかった。
ただ、あなたの記録の手帳を、両手で、抱いていた

四人 ── いえ、あなたを入れて、五人。

その中心に、もうひとりのあなたが、立っていた。

⋯⋯⋯⋯

✦ ✦ ✦

あなたは、もうひとりのあなたに、近づいた。

剣を、抜かなかった。
言葉も、最初は、出さなかった。

ただ、もうひとりのあなたの、手に、自分の手を、重ねた。

そして、こう言った。

「あなたが、間違っていたわけじゃ、ない。

あの霧のなかで、動かないことを選んだあなたは、
正しく、あの時のあなた だった。

⋯⋯わたしは、ただ、
いまの このわたし に、なっただけ」

もうひとりのあなたは、最初は、驚いた顔をした。

それから、少しだけ、笑った。

あなたが、鏡で何度か見たことのある ── 不器用で、温かい、笑み だった。

もうひとりのあなたは、こう言った。

「⋯⋯あなたの、足は、
いま、ちゃんと、地に着いている、ね。

⋯⋯わたしの足は、
ずっと、宙ぶらりんで、震えていた。

⋯⋯あなたが、足を着いてくれたから、
わたしは、もう、震えなくていい」

もうひとりのあなたは、ふわっ、と光の粒になった。

光は、あなたの胸のなかに、静かに、溶けた。

溶ける瞬間、もうひとりのあなたは、最後に、ひと言だけ、残した。

「あなたは、新しい、わたし ね」

✦ ✦ ✦

ヴィタリアの空に、雨が、降りはじめた。

砂を、濡らし、雨は、地に染み込み、地から、新しい芽が、いくつも、出ていた。

カイトが、剣を鞘に収めた。
セラが、湯気のたつスープを、地面に、そっと供えた。
ルナが、銀の月を、空に返した。
ピクセが、ぴくっ、と、羽を震わせた。

カイトが、ぼそりと言った。

「⋯⋯お前、強くなったな」

セラが、ふっ、と笑った。

「あなたの食卓に、
魔法が、宿りました」

ルナが、月光のなかで、頷いた。

「あなたの言葉は、
もう、あなた自身を、燃やさない

ピクセが、最後に、にこっ、と笑った。

「ぴくっ。
12週間、本当に、おつかれさま、でした」

雨が、しっとりと、ヴィタリアの大地を、包んでいった。

砂は、雨に溶け、雨は、地に染み込み、地からは、芽吹きが、まっすぐに、空を見上げていた。

七つの大罪は、すべて、地面に還っていた。
もうひとりのあなたは、いまの、あなたの一部に、なっていた。

──そして、あなたの12週間の、最終決戦は、勝利 で、終わった。

— CHAPTER XIII — TRUE ENDING

光の継承

断罪を回避し、新たな物語へ

語り手:あなた

十二章で物語は終わったかに見えた。けれど、ヴィタリアには、もう一つの章があった。

真の試練を越え、もうひとりのあなたを胸に溶かしたあと、空から舞い降りてきたのは ── 白い鳩だった。

鳩はあなたの肩に止まり、翼の下から、一通の手紙を落とした。羊皮紙に、見覚えのある字で、こう書かれていた。

あなたへ。
12週間、よくぞここまで来た。
最後にひとつ、選んでほしいことがある。
⋯⋯ヴィタリアに、残るか。それとも、本当の世界に、戻るか。

差出人の名は、書かれていなかった。けれど、あなたには分かった。これは、未来のあなた自身からの手紙だと。

✦ ✦ ✦

ヴィタリアに残る、という選択肢は、甘美だった。

ここには、カイトがいる。セラがいる。ルナがいる。ピクセがいる。あなたを「転生者さま」と呼んでくれる、優しい仲間が、ずっとそばにいる。

本当の世界には、何が待っているのか。
仕事の締め切り。家族との関係。検査結果を待つ、白いベンチ。SNSの濁流。週末の予定。月末の請求書。── ぜんぶ、ヴィタリアにはなかったものだ。

『ここに残ったら、楽だろう』 ── あなたは、ふと、そう思った。

けれど、その瞬間、ピクセが羽を震わせた。

「ぴくっ。
転生者さん、いまの想い ── 怠惰のスロウス に、似ていませんか?」

あなたは、はっ、とした。

ヴィタリアに残ることは、安全な場所に閉じこもることだ。霧のなかで、動かないでいることだ。
それは、あなたが、12週間かけて、超えてきたものだった。

✦ ✦ ✦

カイトが、剣を、鞘ごとあなたに差し出した。

「持っていけ。
⋯⋯本当の世界では、これが見えない剣になる。
だが、お前の腰に、ちゃんと、ある」

セラが、薬草を一束、あなたに渡した。

「乾燥薬草です。
本当の世界では、『今日も野菜を一品』という、あなたの内なる声に、変わります」

ルナが、銀色の小さな鏡を、あなたの掌にのせた。

「これは、月の鏡です。
本当の世界で、自分の声がわからなくなったとき、覗いてください。
⋯⋯そこに映るのは、答えではなく、問いを持つ自分です」

ピクセが、最後に、記録の手帳を差し出した。

「ぴくっ。
12週間の、ぜんぶです。
⋯⋯波が来た日に、開いてください。
霧が薄まる速さ を、思い出せます」
✦ ✦ ✦

あなたは、四つの贈り物を、受け取った。

そして、白い鳩の手紙の余白に、ペンで、こう書いた。

本当の世界に、戻ります。

鳩は、あなたの肩から飛び立ち、空の彼方に消えていった。
その瞬間、ヴィタリアの大地が、ふわっ、と光に包まれた。

カイトが、最後の言葉を、ぼそりと言った。

「お前は、もう、俺の 師匠 だ。
⋯⋯ありがとう」

セラが、湯気のたつカップを、空に向けて、捧げた。

「あなたの食卓に、永遠に、魔法が宿りますように」

ルナが、月光のなかで、両手を合わせた。

「銀の月は、これからも、あなたを見守っています」

ピクセが、ぴくっ、と羽を震わせた。

「ぴくっ。
⋯⋯また、ここに、戻ってきていいですよ」

そして、世界が、ふっ、と暗転した。

あなたは、目を、開けた。

本当の世界の、自分の部屋の、自分のベッドの上に、いた。

窓の外には、朝陽。
枕元には、12週間ぶんの、地味な記録メモ。
胸の奥には、確かに ── ヴィタリアの仲間たちが、住んでいた

真エンド「ヴィタリアの新たな伝説」── 達成。

十二章で「もうひとりのロザリア」を胸に溶かしたあと、王宮から、最後の招集状が届いた。

──「公爵令嬢ロザリアを、断罪のため、王宮大広間に召喚する」

大広間には、すでに人が集まっていた。フリードリヒ第二王子、隣に寄り添うヒロインのローズマリー嬢、ライバルのアデリード公爵令嬢、そして親兄弟、貴族たち、宮廷の使用人たち。

すべての視線が、入口から進み出るあなたに、突き刺さった。

『さあ、断罪の場面』 ── 物語は、いよいよ、最後の山場に差しかかっていた。

✦ ✦ ✦

フリードリヒ第二王子が、立ち上がった。

公爵令嬢ロザリア
貴様の罪状を、ここに読み上げる。
⋯⋯ヒロインを毒で害そうとした件。
⋯⋯舞踏会で、平民出身者を侮辱した件。
⋯⋯領地で、農民を搾取した件。
──以上の罪により、貴様の婚約破棄、及び、王都追放を宣告する」

大広間が、ざわめいた。
かつてのロザリア ── 物語の最初のあなた ── なら、ここで、卒倒したか、声を張り上げて反論し、ますます怒りを買って、王都を追放されていたはずだ。

けれど、いまのあなたは、ちがった。

✦ ✦ ✦

あなたは、まっすぐに立ち、王子を、静かに、見上げた。

そして、こう、言った。

フリードリヒ第二王子、お言葉ですが

わたくしは、ヒロイン・ローズマリー嬢に、毒を盛ろうとしたことは、ございません。
わたくしは、舞踏会で、平民出身者を侮辱したこともございません。
わたくしは、領地で、農民を搾取したこともございません。

⋯⋯これらは、すべて、虚偽の証言です。
証言者を、お調べいただきたく存じます」

あなたの声には、震えが、なかった。

12週間の冒険のなかで、ルナと共に磨いた 「言葉を選ぶ力」
セラと共に育てた 「自分の身体を信じる力」
カイトと共に取り戻した 「動ける身体」
ピクセと共に積み上げた 「12週間ぶんの記録」

それらが、いま、ぜんぶ、あなたの背骨 として、立っていた。

✦ ✦ ✦

大広間の奥から、若い騎士が一人、進み出た。

「失礼ながら、王子。お話に割り込ませていただきます」
その声は、聞き覚えがあった ── 領地で、ロザリアを陰ながら守ってきた警備隊長 カイトの声だった

カイトの後ろから、薬草園の侍女 セラ が、書類の束を抱えて現れた。
そのまた後ろから、月光の女神官 ルナ が、銀の天秤を持って現れた。
そして、肩には ── ぴくっ、と羽の音。

カイトが、王子の前に、書類を一束、差し出した。

ロザリア様の領地での12週間の記録です。
農民への施し、薬草の無償配布、子どもたちへの食事支給。
⋯⋯すべて、ピクセが綴じた、本物の記録 です」

セラが、薬草の小瓶を、王子の前に並べた。

「ヒロイン様に渡されたとされる『毒』は、
実は、ロザリア様が育てた、滋養強壮の薬草 です。
分析結果は、こちらに」

ルナが、銀の天秤を、左右、ゆらり、と揺らした。

「証言者を、お調べいただければ、
⋯⋯真の発信源 が、明らかになりましょう。
天秤は、嘘を、量れます」

大広間が、しん、と静まり返った。

✦ ✦ ✦

フリードリヒ第二王子は、書類を受け取り、しばらく、目を通した。
顔色が、ゆっくりと、青ざめていった。

背後で、アデリード公爵令嬢 が、つぶやいた。

「⋯⋯ありえない⋯⋯
ロザリアは、無能な悪役令嬢のはず⋯⋯
わたくしの計画通りに、断罪されるはずだったのに⋯⋯」

その言葉が、決定打だった。

ヒロイン・ローズマリーが、フリードリヒの腕から、そっと、身を離した。

「⋯⋯王子。
わたくしは、最初から、ロザリア様に毒を盛られたとは、申し上げておりません。
⋯⋯すべては、アデリード様が、わたくしに そう証言するように、ご指示 くださっただけ、です」

大広間が、再び、ざわめいた。

✦ ✦ ✦

あなたは、ヒロイン・ローズマリーに、ゆっくりと、歩み寄った。
そして、彼女の手に、自分の手を、そっと重ねた。

ローズマリー嬢
本当のことを、勇気をもって、おっしゃってくださり、
⋯⋯ありがとうございました。

わたくしも、あなたを、ライバルではなく、
ひとりの、勇気ある女性として、尊敬します」

ローズマリーは、目を、潤ませた。

そして ── 大広間の貴族たちの拍手が、ぱらぱら、と起こり、それは、やがて、嵐のような喝采になった。

フリードリヒ第二王子が、ロザリアに、深く、頭を下げた。

「⋯⋯公爵令嬢ロザリア
わたしは、思い違いを、しておりました。
断罪は、撤回いたします。
⋯⋯どうか、お許しを」

あなたは、王子に、優雅に、お辞儀をした。

そして、こう、答えた。

王子、お顔を、お上げくださいませ
⋯⋯わたくしは、もう、あなたとの婚約には、興味がございません。
わたくしには、わたくし自身の物語 があります。

⋯⋯どうぞ、ローズマリー嬢と、お幸せに」

大広間が、再び、どよめいた。
けれど、その声には、悪意はなかった。「悪役令嬢ロザリア」が、いま、誰よりも気品ある女性として、立っていたからだ。

✦ ✦ ✦

あなたは、大広間を、毅然と、後にした。

馬車に乗り込む前、振り返ると、カイト、セラ、ルナ、ピクセが、王宮の階段の上に立っていた。

カイトが、剣を、ふっ、と空に掲げた。
セラが、薬草を、風に、放った。
ルナが、銀の月を、両手で、包んだ。
ピクセが、ぴくっ、と羽を震わせた。

あなたは、馬車に乗り、領地に向かった。
これから、あなたは、自分の領地で、新しい物語を生きる。
断罪を回避した先には、誰にも書かれていない、白紙のページが、広がっていた。

真エンド「自分自身の物語」── 達成。

— EPILOGUE —

雨上がり

語り手:ピクセ

12週間の旅が、終わりました。

けれど、終わりは、新しい始まりでもあるのです。
ピクセは、そう信じています。

転生者さんは、いま、ヴィタリアを去ろうとしています。
本当の世界に、戻るのです。
本当の世界には、本当の食卓があり、本当の運動靴があり、本当の友人があり、本当の主治医がいます。

ピクセは、転生者さんに、ひとつだけ、お土産を、用意しました。

✦ ✦ ✦

それは、薬では、ありません。サプリでも、ありません。
秘伝のレシピでも、奇跡の言葉でも、ありません。

それは、こういう一文です。

動けない日も、
続けている日も、
全部、あなたの12週間の、一部だった

続けることが、大切なのではありません。
続けようとし続けたこと が、大切だったのです。

それは、結果ではなく ── 姿勢の名前です。

転生者さんが、本当の世界に戻ったあと、波は、また、来るでしょう。
動けない朝が、また、来るでしょう。
霧の濃い日が、また、来るでしょう。

それは、12週間の旅が、無駄だったということでは、ありません。

波が来るたびに、転生者さんは、思い出すはずです。

動けない日も、続けている日も、全部、自分の物語の一部だったと。
七つの大罪は、敵ではなく、自分の心の動きの、別の名前だったと。
仲間は、ヴィタリアを去ったあとも、心のなかに、ちゃんと住んでいると。

そして、霧が薄まる速さも ── もう、知っているのです。

✦ ✦ ✦

ピクセは、最後に、羽を震わせました。

ぴくっ、と。

それは「さようなら」では、ありませんでした。
また、ここに戻ってきていいですよ」という意味でした。

ヴィタリアは、いつでも、扉を開けています。
砂は、雨を待ち、雨は、芽吹きを待っています。

そして ──

あなたが、布団から這い出せない朝にも、
検査結果を待つ廊下にも、
夜更かしして眠れない深夜にも、
ヴィタリアは、いつでも、そこにあります。

ぴくっ、と羽の音が、聞こえたら、それは、ピクセです。
橙色のランプを、抱えています。
カイトも、セラも、ルナも、ちゃんと、いますよ。

✦ ✦ ✦

— 12週間後の、ある朝 —

これは、本当の世界の話です。
ヴィタリアではなく、あなたが、いま、いる場所での話。

その朝、あなたは、布団のなかで、目を覚ましました。

身体は、いつもより、少し、重たい。
頭の奥に、疲労の影が、ちらりと、揺れている。
『今日は、動けないかもしれない』 ── そう、感じる朝でした。

かつてのあなたなら、ここで、自分を責めたかもしれません。「また、サボっている」 と。「12週間も頑張ったのに、もう、戻ってしまった」 と。

けれど、いまのあなたは、ちがいました。

✦ ✦ ✦

あなたは、布団のなかで、ピクセの羽の音を、思い出しました。
ぴくっ、と。

「動けない日も、続けている日も、
全部、あなたの12週間の、一部でしたね」

あなたは、ふっ、と、笑いました。
胸の奥で、温かい何かが、ゆっくりと、灯りました。

『今日は、動けない日にしよう』
そう、自分で、決めました。
誰にも、責められない。誰にも、許可を求めなくていい。あなたが、あなたの今日を、選んでいるのです。

でも、布団から手を伸ばして、枕元のコップに、水を、ひと口、含みました。
1分の散歩 ── ヴィタリアでは、これが、最初の一歩でした。
本当の世界では、これが、1口の水 なのかもしれません。

身体が、ふっ、と、息をしました。

動けない日にも、ちゃんと、息は、しています。
息をしているだけで、十分なのです、と、ピクセは、教えてくれました。

✦ ✦ ✦

枕元の、12週間ぶんの記録メモを、ぱらぱら、とめくってみました。

最初のページには、たった1分の散歩の記録。
真ん中あたりには、青魚の小皿の記録。
後ろの方には、夜の30分早めの就寝の記録。

『これらは、ぜんぶ、わたしが、選んできたこと』
『ぜんぶ、わたしの、12週間の一部』
『動けない朝も、また、その続きの一部』

あなたは、メモ帳を、そっと、閉じました。

そして、もう一度、目を、つぶりました。
夢のなかで、雨の音が、聞こえました。

✦ ✦ ✦

— 半年後の、ある夕方 —

あなたは、夕暮れの公園のベンチに、座っていました。

桜の葉が、淡い緑から、夏の濃い緑に、変わりつつある頃。
遠くから、子どもたちの笑い声が、風に乗って、届いていました。

波は、何度か、来ました。
動けない日も、何日か、ありました。
記録を忘れる週も、何度か、ありました。

けれど、あなたは、霧が薄まる速さを、知っていました。
動けない日のあとに、また、動き出せることを、身体で、知っていました。

『波が来たら、その日は、休む』
『そして、翌日、1%から、また始める』
『 ── それで、いいのだ』

カイトの言葉が、いつも、胸の奥に、住んでいました。

✦ ✦ ✦

あなたは、ベンチから立ち上がり、ゆっくりと、家に向かって、歩き始めました。

その歩幅は、ヴィタリアの霧のなかで踏み出した、最初の一歩と、同じくらいの幅でした。
けれど、その一歩は、もう、震えていませんでした。

『あの霧のなかで、動かないことを選んだ、あの頃の自分も、間違っていなかった』
『動き出せた、いまの自分も、よく頑張った』
『 ── どちらも、わたしだ』

あなたは、夕陽に向かって、ふっ、と、笑いました。

遠くで、ぴくっ、と、羽の音が、聞こえた気が、しました。

✦ ✦ ✦

では、ここで、本書は、いったん、閉じましょう。

続きは、あなた自身の、本当の世界 で。

ヴィタリアは、いつでも、扉を開けて、待っています。
そして、ピクセも、カイトも、セラも、ルナも、
あなたの胸の、いちばん奥のところに、ちゃんと、住んでいます。

— 完 —