12週間の旅が、終わりました。
けれど、終わりは、新しい始まりでもあるのです。
ピクセは、そう信じています。
転生者さんは、いま、ヴィタリアを去ろうとしています。
本当の世界に、戻るのです。
本当の世界には、本当の食卓があり、本当の運動靴があり、本当の友人があり、本当の主治医がいます。
ピクセは、転生者さんに、ひとつだけ、お土産を、用意しました。
✦ ✦ ✦
それは、薬では、ありません。サプリでも、ありません。
秘伝のレシピでも、奇跡の言葉でも、ありません。
それは、こういう一文です。
「動けない日も、
続けている日も、
全部、あなたの12週間の、一部だった」
続けることが、大切なのではありません。
続けようとし続けたこと が、大切だったのです。
それは、結果ではなく ── 姿勢の名前です。
転生者さんが、本当の世界に戻ったあと、波は、また、来るでしょう。
動けない朝が、また、来るでしょう。
霧の濃い日が、また、来るでしょう。
それは、12週間の旅が、無駄だったということでは、ありません。
波が来るたびに、転生者さんは、思い出すはずです。
動けない日も、続けている日も、全部、自分の物語の一部だったと。
七つの大罪は、敵ではなく、自分の心の動きの、別の名前だったと。
仲間は、ヴィタリアを去ったあとも、心のなかに、ちゃんと住んでいると。
そして、霧が薄まる速さも ── もう、知っているのです。
✦ ✦ ✦
ピクセは、最後に、羽を震わせました。
ぴくっ、と。
それは「さようなら」では、ありませんでした。
「また、ここに戻ってきていいですよ」という意味でした。
ヴィタリアは、いつでも、扉を開けています。
砂は、雨を待ち、雨は、芽吹きを待っています。
そして ──
あなたが、布団から這い出せない朝にも、
検査結果を待つ廊下にも、
夜更かしして眠れない深夜にも、
ヴィタリアは、いつでも、そこにあります。
ぴくっ、と羽の音が、聞こえたら、それは、ピクセです。
橙色のランプを、抱えています。
カイトも、セラも、ルナも、ちゃんと、いますよ。
✦ ✦ ✦
— 12週間後の、ある朝 —
これは、本当の世界の話です。
ヴィタリアではなく、あなたが、いま、いる場所での話。
その朝、あなたは、布団のなかで、目を覚ましました。
身体は、いつもより、少し、重たい。
頭の奥に、疲労の影が、ちらりと、揺れている。
『今日は、動けないかもしれない』 ── そう、感じる朝でした。
かつてのあなたなら、ここで、自分を責めたかもしれません。「また、サボっている」 と。「12週間も頑張ったのに、もう、戻ってしまった」 と。
けれど、いまのあなたは、ちがいました。
✦ ✦ ✦
あなたは、布団のなかで、ピクセの羽の音を、思い出しました。
ぴくっ、と。
「動けない日も、続けている日も、
全部、あなたの12週間の、一部でしたね」
あなたは、ふっ、と、笑いました。
胸の奥で、温かい何かが、ゆっくりと、灯りました。
『今日は、動けない日にしよう』
そう、自分で、決めました。
誰にも、責められない。誰にも、許可を求めなくていい。あなたが、あなたの今日を、選んでいるのです。
でも、布団から手を伸ばして、枕元のコップに、水を、ひと口、含みました。
1分の散歩 ── ヴィタリアでは、これが、最初の一歩でした。
本当の世界では、これが、1口の水 なのかもしれません。
身体が、ふっ、と、息をしました。
動けない日にも、ちゃんと、息は、しています。
息をしているだけで、十分なのです、と、ピクセは、教えてくれました。
✦ ✦ ✦
枕元の、12週間ぶんの記録メモを、ぱらぱら、とめくってみました。
最初のページには、たった1分の散歩の記録。
真ん中あたりには、青魚の小皿の記録。
後ろの方には、夜の30分早めの就寝の記録。
『これらは、ぜんぶ、わたしが、選んできたこと』
『ぜんぶ、わたしの、12週間の一部』
『動けない朝も、また、その続きの一部』
あなたは、メモ帳を、そっと、閉じました。
そして、もう一度、目を、つぶりました。
夢のなかで、雨の音が、聞こえました。
✦ ✦ ✦
— 半年後の、ある夕方 —
あなたは、夕暮れの公園のベンチに、座っていました。
桜の葉が、淡い緑から、夏の濃い緑に、変わりつつある頃。
遠くから、子どもたちの笑い声が、風に乗って、届いていました。
波は、何度か、来ました。
動けない日も、何日か、ありました。
記録を忘れる週も、何度か、ありました。
けれど、あなたは、霧が薄まる速さを、知っていました。
動けない日のあとに、また、動き出せることを、身体で、知っていました。
『波が来たら、その日は、休む』
『そして、翌日、1%から、また始める』
『 ── それで、いいのだ』
カイトの言葉が、いつも、胸の奥に、住んでいました。
✦ ✦ ✦
あなたは、ベンチから立ち上がり、ゆっくりと、家に向かって、歩き始めました。
その歩幅は、ヴィタリアの霧のなかで踏み出した、最初の一歩と、同じくらいの幅でした。
けれど、その一歩は、もう、震えていませんでした。
『あの霧のなかで、動かないことを選んだ、あの頃の自分も、間違っていなかった』
『動き出せた、いまの自分も、よく頑張った』
『 ── どちらも、わたしだ』
あなたは、夕陽に向かって、ふっ、と、笑いました。
遠くで、ぴくっ、と、羽の音が、聞こえた気が、しました。
✦ ✦ ✦
では、ここで、本書は、いったん、閉じましょう。
続きは、あなた自身の、本当の世界 で。
ヴィタリアは、いつでも、扉を開けて、待っています。
そして、ピクセも、カイトも、セラも、ルナも、
あなたの胸の、いちばん奥のところに、ちゃんと、住んでいます。
— 完 —